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執筆者の写真yusuke murakami

クンブメーラ  未

インド北部でチャダルトレックを終えた後、レーからデリーへ移動し、2週間ぶりのシャワーを浴びる。体を擦ると垢が山のようにボロボロ取れて非常に爽快。

デリーで1泊した後、急いで電車に乗りアラハバードへ移動。

目的はクンブメーラを見るためである。


クンブメーラとは

「インドにある4つの聖地で行われるヒンドゥー教最大の祭典で、3年ごとにハリドワール、アラハバード、ナシク、ウッジャイン の4か所を持ち回るかたちで開催される。したがってそれぞれの場所では12年ごとに開催されることになる。(wikipediaより引用)」


そして今から向かうアラハバードで開かれるクンブメーラ(2013年)は※マハークンブメーラ(144年に1回)と呼ばれ、インド中から敬虔なヒンドゥー教徒がなんと1億人集結するというとんでもない宗教行事なのだった。

※「マハー」とはサンスクリット語で「偉大な」という意味で「マハーバーラタ」や「マハートマ・ガンディ」など色々な場所で使われている。


なぜこんなに慌てて移動しているかと言うと、クンブメーラの開催時期とチャダルトレックの時期が重なっていたためである。

実はチャダルトレックに行く前からクンブメーラのことが気がかりだったのだ。

アラハバードに着く前に「すでにクンブメーラは終わりました」なんてことは是が非でも避けなければならない。


そんなわけで、デリーから8時間ほどかけてアラハバードに到着。

急いで駅を出ると、ガンジス河のように流れている夥しい人の群れが目に入り安堵した。

「あぁ、間に合った」



 場所がわからなくても、この群衆に混ざって歩いて行けばそこにクンブメーラはある


「1都市の一部に1億人が集まる」というのは世界規模で見ても過去に類を見ないレベルなのではないだろうか。


しばらく歩いて行くと壮大な規模の仮設テント村があった。

今日はこのテント村のどこかに泊めてもらうしかないので、片っ端からテントを覗いて行くことにした。

あまり詳しいことは覚えていないのだが、ある親族が住んでいるテントの中に入れてもらい困り顔で「今日ここに泊めさせてもらえますか?」とお願いしてすんなり受け入れてもらった気がする。

困窮した状況を装い、謙虚な雰囲気で図々しい行為をすることはバックパッカー生活が長いと自然と身についていくもので、日本にいても非常識と思われるだけで得になることはないが、海外では非常時に役に立つ。

ただ僭越ながら、こちらも相手をそれなりには吟味する。話した時の印象や雰囲気などで人となりが全てわかるとは思っていないが、明らかに荷物を盗りそうな人間やチンピラ、ごろつきの集まっているテントは避けるようにしている。

ここらへんも長いバックパッカー生活で自然に身に着く自己防衛本能みたいなもので、悪く言えば人を信じていない、疑り深い、よく言えば慎重で用心深い、自分の身を守るためとなる。関係ないが、日本で尻ポケットに財布を入れている人をよく見かけるが、そういう時は「あぁ、この人、海外行ったことないんだな」と思ってしまう。これ自体もバックパッカーが陥りがちな思考なので、この辺でやめておく。

というわけで、テントの中に荷物を置かせてもらい、帰る時に迷わないように周辺の目印になりそうなものを写真に撮り、散策に出かける。



クンブメーラに来たのは、サドゥーを見るためだったと言っても過言ではない。

サドゥーとはヒンドゥー教世界で見られる苦行者、隠者、ヨーギである。

中には服を着ている人もいるが、ほとんどが布1枚羽織ってるだけとか、裸に近い恰好をしている。

自分がアラハバードに着いた時点でクンブメーラの主要な儀式は終わっていたので、残念ながら何万人ものサドゥーが雄たけびを上げながらガンジス河で沐浴する圧巻の光景には出会えなかったのだが・・・



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              「・・・・・・・・・」


意外とすぐ近くにいました。

まさに邂逅。

すいません。モザイクかけます。



  裸のナガババ。見習いサドゥーはふんどしを取ることが許可されないらしい(笑)


つまり裸のサドゥーはそれなりに徳を積んだ?認められたサドゥーということになる。

サドゥーは社会的には死んだ者と同じで、家族や親族との縁を切って新しく生まれ変わった存在として生きている。また入門するのに血統や家柄を問われないので、大物サドゥーになると生き神として扱われ(実際にはわからない)カースト制度の枠組みや階級を飛び越えることができる。

日本にも学歴とその後入社する会社のランクによってほぼ人生が決まるカースト制度を他人事とは思えないシステム(未だにこの信奉者は多い)が存在するが、それに当てはめて考えると、学歴のないホームレスがその道を極めることで社会的地位が大企業の社長や政治家よりも上になるという感じか。

ホームレスの道を極めるというのが意味不明だが、例えば空き缶を1日500缶集めるとか、路上で聖書やバガヴァッドギーターの教えを説くとか、路上で立小便はしないとか、そんなところか。

そう考えると逆に大物サドゥーになる要件みたいなものはあるのだろうか。

カリスマ性、自我や執着の滅尽、徹底した現世放棄、あらゆることに精通している、いつでもサマーディーに入れる こんなところだろうか。


サドゥーの歴史は少なくとも3000年前まで遡ることができ、古代インドの聖典リグ・ヴェーダにこんな一節がある。


「風を帯とする(すなわち裸体の)苦行者は褐色にして垢を(衣服として)纏う。

彼らは風の疾走について行く。神々が彼らの中に入りたるとき。」


文面だけ見るとかっこよすぎだが、現実は上の写真である。

ここに来る前に風呂に入らず、垢まみれのままクンブメーラに参加していれば私もサドゥーの一員になれていたかもしれない。そして、ナガババに・・・



サドゥー関連で

昔、とあるインド関係の本を読んで印象に残った話があるので簡単に紹介する。


著者がバラナシのガート(沐浴するための階段)を散歩していた時のこと。

ある老サドゥーの周りに客が集まっていた。

何かヨーガの技を披露してくれるのかと思い近づいて見ると、客の中にどよめきが起こった。

その老サドゥーは突然ムクムクと自分のリンガ(男根)を屹立しはじめ、地面に落ちていた紐が結びつけられた煉瓦を手に取り、それをリンガの先端部分にぶら下げたのである。

そして老サドゥーは少し優越感の混じった表情で、ガートを降り小舟でガンジス河を渡っていった・・・

その後、著者が通っていた大学のフランス人の友人にその話をすると、その友人は「そんなこと、俺でもできる」と言いズボンを脱いで仰向けになった。

数分たてども何の変化もなく、それを見ていた著者を含む数人は笑いだした

そのフランス人は「だめだ。君たちが笑うからだ。〇〇で会ったモニカのことを思い出していたのに・・・」と口惜しそうに言ったので、最後はみんなで大爆笑となった。

この2人の営為の違いは精神医学上の観点からも非常に重要である。

フランス人は、その現象を招来すべく努力するのに「妄想」をもってした。これこそ、まさに西洋合理主義に基づく実践に他ならない。

しかし、老サドゥーは、何想うこともなく、自分の意志の反映を、即座に肉体の一部に現じてみせたのである。


深い・・・

大袈裟に言えば科学(的思考)と神秘の違いになる。

科学は論理の積み重ねで時間はかかるが一定の目的に到達し、解明される範囲は限定的。

神秘は量子もつれ並みに瞬時に目的に到達し、科学では解明できない範囲をカバーする。

まさに「悟り」がそれである。悟った時点で理解に至る、言葉や思考を超越した世界。



神秘関連で

「あるヨギの自叙伝」という本はこの類の話の宝庫なので一部紹介する。


ヒマラヤの奥地に1000年以上生きている神人(大聖者)が、空を飛び、テレポート移動し、崖から落ちて死んだ人を蘇らせる。ヒマラヤの山奥に黄金の宮殿を物質化するなど

他にも体を幽体化し、写真に映らない聖者や信じられないような話が3ページに1話ぐらいのペースで出てくるのでおすすめ。



              クンブメーラのテント村



ヒンドゥー教には「輪廻転生」という死生観とそこからの「解脱」という究極の目標がある。輪廻転生という発想自体はインド特有のものではなく、広く世界中に存在している。

しかし、ヒンドゥー教の転生観がユニークなのは「死んだあと、人は生まれ変わらない方がいい」と考えている点である。

なぜかというと、この世で生きることは苦そのものであるからである。

また、この世界はアハンカーラ(自我)が生み出す壮大なマーヤ(幻想)であって、全てはリーラ(神のお遊び)だというどこか諦観じみた世界観が根底にあるからである。


「え?死んでもまた生まれ変われるなら最高じゃないですか。何度でも人生やり直せますよ」などと考える人がいるが、そんな甘いものではない。

例えば、ブラック企業で働いてる人は「定年」というゴールがあるからこそ、それを目標に頑張ることができる。「新卒から定年まで40年以上働かなくてはいけない」と考えた時点で脱線を決意する自分みたいな人間は置いておき、大半の人間は40年というゴールがあるからそれに向かって働けるのだ。これが仮に永遠に続くとすれば、それがどれだけ楽で快楽に満ちたものであっても地獄と化すのは容易に想像できる。楽しいことは飽きるし、そんなに続かない。苦しみがあるからこそ喜びが生まれる。突き詰めて考えれば、ごく当たり前の思想なのだ。


だから、いかにして生と死の永遠の循環から脱出するのかが重要になる。

そして、そのために苦行や瞑想、日々の良い行い(業・カルマ・ダルマの遵守)などのプロセスを経て、悟りを開く必要がある。


悟りを開くには①行為(カルマ)②知識(ジュニヤーナ)③信愛(バクティ)の3つの道があるのだが、簡単に言うと、善悪などの二元論的思考をやめ、自我(エゴ)や執着を捨て、神に全てを明け渡し(let go)、「本当の自分とは誰なのか?」をひたすら追求すること。そして最終的に自分の心の本性(※真我・アートマン)と宇宙意識(ブラフマン)が同じものだと気付いた時、つまり、梵我一如の境地に達した時に、その人は2度と来世に生まれ変わることがないのだという。

つまり、悟りとは科学や哲学では到達できない境地、経験したものだけが理解できる世界なのである。


※真我=アートマン=プルシャ

本来の自分。よく「自分探しの旅」などと言って大学生が就活アピールの為に世界を旅行しているが、その際に使われる「自分」とはだいぶ意味合いが違うと思われる。

仏陀生誕より前の紀元前750年頃のインドにヤージュニャヴァルキヤという聖者がいて、彼は「自分とは何か?」を突き詰めて考え、ついに結論に至った。それがアートマン。

人間とは玉ねぎみたいなもので、いくら剥いて行っても次々に別の層が現れ、最後には「空」に至る。自分とは「体でもない」「骨でもない」「心でもない」「内臓でもない」と「~ない」「~ない」と否定に否定を重ねた結果、最後に残るのが真我、本当の自分。


話が脱線してしまったので、さらに脱線すると


「真我」に至る過程について

古代インドの神秘思想「ウパニシャッド哲学」は、人間のとりうる意識の状態を4つに分類している


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①生命活動はあるが、知覚のない状態  「昏睡」

②知覚だけがある状態  「夢のない眠り」

③知覚に気づいている状態  「自我意識」 →通常の人間はここ

④「知覚に気づいている状態」に気づいている状態  「観察する意識」


仏教の開祖シッダールタ王子は、悟りを開いてから仏陀、つまり目覚めた人と呼ばれるようになるのだが、これは逆に言えば、凡夫は目覚めているような気になっていても実は目覚めていないのだということを意味している。つまり、凡夫は覚醒状態にあっても、レベル③では目覚めていても、レベル④では目覚めていないということなのだ。

このレベル④の状態は③(自我意識)が止まっているという点では夢のない眠りと同じなのだが、観察する意識が活性化しているという点でノンレム睡眠とは全く異なる意識状態である。レベル③(自我意識)の働きが止まると、自分が自分であるという感覚や、時間が流れていくという感覚がなくなる。にもかからわず、レベル④の処理が行われているということは、自分も時間も存在しないのに、そのことにはっきり気づいているという、非常に奇妙な状態である。時間と欲望は同じ処理のレベル、つまりレベル③の自我意識から発生してくる。自我意識が止まると欲望も快感も感じないし、時間もなくなるし、自分という身体のイメージも消える。だから、生まれては死んでいく自分ということ自体が意味を失う。確かに夢のない眠りの中でも、生きながらにしてこれらは全て消えている。では、寝れば解脱できるのかというとそういう話ではない。寝るのではなくあえて瞑想するということは、レベル④の観察する意識を保ったまま、レベル③の自我意識を止めていくということなのである。

インドだけでなく、古今東西の神秘家たちが、ある究極の状態では、自他の区別が消滅し、時間が止まり、一瞬が永遠になる、ということを繰り返し説いてきた。逆に言えば、それ以外の状態では、我々は、外界から区別された自己というイメージを持ち、時間が流れているかのように思って生きている。しかし、それは客観的な事実ではない。レベル③の情報処理、自我意識が作り出しているひとつの認識の形態なのだ。

以上 「彼岸の時間<意識>の人類学 蛭川立」より引用

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            ガンジス河で沐浴する人々


ヒンドゥー教的に見れば、沐浴は体の汚れを落とすだけでなく、前世からのカルマ(この場合、悪業)を洗い落とす意味もある。


輪廻転生を語る時によく語られる「盲亀浮木」の話。

「人間に生まれる変わることは百年に一度だけ水面に浮かび上がる盲目の亀が海に漂っている浮木のたった一つの穴に入るぐらいの確率」という仏陀のたとえ話であるが、世界人口が80億人に達する現在において「人間として生まれることってそんなに稀有なことなのか?」と少し疑問に思ってしまう。ただ宇宙の生命全体として考えると輪廻転生みたいなことはありえるのかなと思う。

なお、チベット仏教では死後から次に生まれ変わるまでの時間を「バルド(中間・中有)」という言葉で表しており、現世で解脱できなかった人は死後こそが最大の解脱のチャンスとして捉えられている。そして、死後の解脱方法やより良い輪廻に巡り合えるような手引書(死者の書)すら出ている。

参りました。もう輪廻転生はあるよ。



  「着替えてるところ見られた!」と言わんばかりに睨みを利かせるサドゥー


サドゥーは施しを受けて生きていくのが一般的なので、痩身の人が多いのだが、このサドゥーは美味しいものをたらふく食べてそうな※体をしている。間違いなく「悟り」には至っていないだろう。何なら自分の方が節制して生活している自信があるぐらいだ。

このおっさんに「真我」とは何か、「明け渡し」とは何かを教えてやりたいぐらいだ。

という冗談はさておき、サドゥー社会もピンキリで大半が欲まみれの俗物だと思う。日本で例えると健常者なのに働かずに生活保護を貰うような感覚でサドゥーになっているインド人もいることだろう。似非サドゥー扱いしてるけど、実は大聖者だったらすいません。


※インドの聖者関係の本を読んでいて驚くことのひとつとして、肉体を自己と同一視していない点が挙げられる。

近年は日本でもハタ・ヨーガなどが導入され、それこそ若い女性などがこぞって「私、ヨガが趣味なんです~」みたいなことを言っているが、世間一般で言われているヨガとはストレッチをしたり、呼吸法を整えたりと「自分の健康」のために実践していることが普通である。要は自分の肉体を自己と同一視していることになる。

しかし、解脱を目指す本物のサドゥー(ヨーギ)は肉体を真我(魂)の入れ物としてか見ておらず、ラーマクリシュナなどを見てもわかるが、自分の体を全く重要視しておらず、そのため風呂にも入らないしメンテナンスをしないので当然病気にもかかりやすくなる。そして肉体の死後も真我は存在し続けるという思想から、火葬を終えるとお骨を拾うこともなく、そのまま遺灰をガンジス川に流してしまう。体を重要視していないサドゥーにとって、贅肉の多寡では聖者かどうかなんて判断できないということ。

ニームカロリババのようなまん丸な聖者もいるのである。



                幻想的な人の海


宗教に疎い自分でさえ、この空間にいると「ヒンドゥー教」の世界に自分が溶け込んでいくような感覚を覚える。「聖」も「俗」も全て溶解した空間。不条理と矛盾と混沌の世界。



     自分を泊めてくれたテントにて。全員でリンガに祈りを捧げる




      サマーディー(深い瞑想状態)に入っている?ナガババ



                テントの中にて



            テントおよび祭壇の前で記念写真


結局アラハバード滞在時は宿泊も食事も無料であった。

言葉も話せない異国の浮浪者を受け入れていただき、ありがとうございました。

いつか何らかの形で恩返しできればと思います。



「悟り」の境地に達すると、おおらかさを超え、リキシャーの前で寝転がっても気にしなくなります。おそらく、このおばさんの目には物質は見えておらず、全てが神に見えているはずです。




最後に神秘家のお言葉をいくつか


「それぞれの宗教が、「究極の認識の状態」にそれぞれ別の名前をつけていると知ったら、あなた方は驚くだろう。インド以外で生まれた3つの宗教には、それへの名前がない。自分自身を探求するほど遠くまで進んだことがないからだ。それらの宗教は幼稚で未熟なままだ。神にすがり、祈りにすがり、救い主にすがっている。それは常に依存している。- 

他の誰かに救ってもらいたがっている。それらは成熟していない。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。この3つは全然完成されていない。おそらくそれこそが、こういう宗教が世界中の大多数に影響を及ぼしてきた理由だ。地上の大部分の人たちは、まさに未成熟だからだ。この3つには類似性がある。

だが、インドの3つの宗教には、この究極の状態を表す3つの言葉がある。ジャイナ教は、究極の存在の状態として「カイヴァリア(独りあること)」という言葉を選んだ。仏教が「ニルヴァーナ(無我)」という言葉を選び、ヒンドゥー教が「モクシャ(自由)」という言葉を選んだように。3つの言葉はすべて美しい。それらは同じ実在の3つの異なる側面だ。それを解放、自由と呼ぶこともできる。それを独りあること、と呼ぶこともできる。それを無我、無と呼ぶこともできる。どんな名前をつけても、充分ではない。究極の経験を指し示すための、異なった表現に過ぎない。

だが、常に自分が直面している問題が否定的なものか、あるいは肯定的なものかを調べなさい。もしそれが否定的なものなら、戦ってはいけない、そんなものは苦にしないことだ。肯定的なものを探すだけでいい。そうすれば、正しい入口にいることになる。」


「生を理解しようとすれば、収拾がつかなくなる。理解のことは全部忘れ、ただ生を生きなさい。そうすれば理解できるだろう。理解は、知的なものでも理論的なものでもなく、全体的なもの。言語的なものではなく、非言語的なものだ。それが生は神秘だということの意味だ。生は生き得ても、解き明かし得ない。生は知り得ても、語り得ない。それが神秘の意味だ。生は神秘だということの意味は、生は問題ではないということだ。問題は解きうる。だが、神秘は解き得ない。解き得ぬ謎を孕んでいる。だが、生が神秘ではなく、誰かがやってきてあなたに説明するとしたら・・。そうなったら、どうする?自殺するしかないだろう。自殺さえ無意味に思える。生は神秘だ。知れば知るほど素晴らしくなる。不意に、生を生きる瞬間が来ると、あなたは生とともに流れ出す。あなたと生の関係が、最高潮に達する。だが、生を見定めることはできない。それがその素晴らしさであり、深みに底のない所以なのだ。」

 


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